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小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が西港を訪れたのは明治26年7月22日の朝である。長崎から船で熊本市への帰途、朝食を取るために立ち寄ったのが浦島屋であり、この浦島屋と八雲の出会いが「夏の日の夢」を生み出したのである。 ≪浦島屋全景八雲は「三角に浦島屋という、西洋風に建てて造作した宿屋がありました。…甚だ奇麗な婦人=蜻蛉のように優美−水晶の風鈴の鳴るような声をした婦人」と、美貌の宿の女将、山下よしを表現している。そして、「縁側のスギの柱の間から、海岸沿いの美しい灰色の家並みが見晴らせました。そして錨をおろして、眠たげに休んでいる黄色い帆かけ船や、緑の大きな断崖の間にひらけた入り江の口や、その向こうの水平線までギラギラ照り映える夏の光が目にとまりました。」と西港を表現しています。 ≪スギの柱の間から八雲が訪れた西港は、都市計画に基づいて次々と新しい、しかも統一された家並みが立ち並び、最も活気に溢れていたころである。海沿いには海運倉庫が軒を並べ、沖合の貨物船と岸壁の間には小舟(はしけ)がひっきりなしに行き交い、沖仲仕と呼ばれた運搬人たちがせわしなく立ち働いていたものである。
今でも、築港記念館前のふ頭を佇めば、岩谷の花や釣鐘島、荷島(にないじま)など、屏風廻しの良い港といわれるように、その風景は美しいし、きらきらと輝く波しぶきは波紋となって夢幻の世界をつくり、俗世を忘れさせる魅力をもっている。長崎という当時の洋風化した大都会から逃れてきた八雲にとっては、ここはまさに気持ちの休らぐ場所であったに違いない。しかも泊まった宿屋の女将さんをはじめ皆が、純日本的なもてなしをしてくれたことが、日本をこよなく愛した八雲の心に響かないはずがない。八雲は半日ほどの滞在の中で、短編とはいえ、ひとつの紀行文を残すだけの感動を受けたのである。八雲にとって、西港と浦島屋は生涯忘れられない思い出だったことだろう。 浦島屋は、明治38年、解体されて大連に運ばれ、和風旅館浦島屋として再建されたという。それ以来、浦島屋も小泉八雲も三角の歴史の中に埋没した。 その浦島屋と八雲に光を当てたのは、三角町史編纂事業に携わった専門委員の人々であった。この人々が三角の歴史を書くときに避けて通れなかったのが三角港築港とその後の繁栄でだった。
そして昭和58年の「三角西港シンポジューム」で西港が再認識される中から、浦島屋や龍驤館など明治の息吹がまたたくまに蘇り、西港そのものがぎらぎらと輝き始めたのでる。その後、港湾環境整備事業によって、建造物の修復や復元や歩道の整備、水路の浚渫など矢継ぎ早に進められ、一方民間でも「三角西港を守る会」を発足させ、花の植栽や塵や空き缶の回収など精力的に取り組み、くまもと景観賞も受賞したところである。今後は浦島屋をはじめ復元、修復された建造物や石積ふ頭、周囲の景観がこの地を訪れる人々の心を和ませてくれるものとなるであろう。 三角西港が、熊本県民の夢と期待を背負って華々しくデビューしたのは、明治20年8月15日のことである。 明治9年の神風連の乱、翌10年の西南戦争で焦土と化した熊本県は、人心の収斂と殖産産業を進める中で貿易港の建設に着目。明治13年、熊本市沖の百貫港を候補地をして内務省に申請した。その結果、内務省嘱託のオランダ人水理師ムルドルが調査のため派遣された。ところが、ムルドルの見た百貫港は遠浅の砂浜が続き、軟泥地盤のうえ、白川からの土砂の流入が激しく、港湾建設及びその後の維持管理費に莫大の金がかかるとして断念。そして沿岸を見て廻るうちに「こここそ天然の良港である」と絶賛されたのが、三角西港である。
西港は当時、家屋が2,3軒あるだけの峻剣の地、陸の孤島であった。ここは江戸時代に肥後細川藩の海の関所(上関)が本町(三角駅と西港の中間の集落)に置かれており、そこには70石取りの侍が定番として詰めていた。向かいの天草は天領、そして眼前には島原の乱があった島原藩と境していたので、西港の小高い丘(権現社)付近に遠見番所を置いて見張りをしていた。その番人の家族が住んでいるだけの地であった。ここに着目したムルドルの進言によって、熊本県は百貫港修築計画を「三角港修築計画」に変更、明治16年、三角築港及び連絡道路建設を決議。国も10月には許可して築港工事が始まった。 このように国の直轄事業として進められたのが宮城県の野蒜港 、福井県の三国港と三角港の3港であり、明治の三大築港と言われた。そして今なお、当時の石積ふ頭のまま残っているのは、この三角港だけである。 テキスト:観光パンフレット「今蘇える 夏の日の夢」より
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